つい最近、演劇における「本当」ということについて考える機会があった。昔初めて大学かどこかで芝居を見た時、「嘘くさい」と思ったのを覚えている。どこがどう嘘くさかったのか思い出せないが、表現の仕方とか、体の動かし方とか、そういうものが不自然に思えたのだと思う。演技も学生のもので、おそらく下手だったのだろう。今プロの役者の演技を見て、さすがにうまいなと感心する。が、「本当か」ということになると、どうもわからない。そしてこの「本当」かどうかということは舞台上で発語するということをいかに成り立たせるかという事にかかっているようである。 どうして舞台上で発語するのは不自然で嘘くさいのだろう?日本の伝統芸能は型というものが決まっているし、古くからの形式にのっとったリアリズムではないスタイルで創られた世界に、声も体もマッチしている。これが現代演劇になってくると、新劇以降、「西洋劇、又は西洋のリアリズムをもとにした劇」をどうやって西洋人でない日本人が成り立たせるのかという課題と取っ組まざるを得ない。鬘をかぶって西洋人のように振る舞い、喋る?でも喋っている言葉は日本語。昨年日本に帰った時、こういう演劇を目撃してショックでした。
舞台上で発語するということは、結局、戯曲そのものから生まれてくるのではなく、体や空間から生まれなければ成り立たないのだろう。